社長・うとのUTO物語

世界一のカシミヤニットメーカーを目指して

 大風呂敷を広げたものだとお思いかもしれません。しかし、UTOは近い将来、『カシミヤのニットならUTO』と世界から認められるメーカーを本気で目指しています。

海外を駆け回る旅行屋の時、ヨーロッパのファッションの実状を視察するツアーをやったのが切っ掛けでファッション業界との関わりが出来、自分でも思いもしなかった大転換。とうとうニット屋になってしまいました。以来40年。ファッション屋として多くの経験と勉強をすることが出来ました。

ニット屋になった当初からこの軽くて柔らかいカシミヤに魅せられ虜になってしまい、『好きこそものの上手なれ』と、自分なりに勉強してきたカシミヤにニット屋人生を賭け、世界を目指します。

 1992年に独立して、bhfインターナショナルというブランドを立ち上げ、いろんなデザインと素材を使ってもの作りに挑戦してきました。秋冬素材の羊毛はもちろん、アンゴラ、モヘヤ、アルパカ。そして一番好きなカシミヤ。春夏は綿、麻、シルク等々。

当初から出来るだけ天然の素材を使ってもの作りをしたいと思っていました。化学繊維や合成繊維が嫌いなわけではないんですが、天然から供給される素材が好きだし、自然と共存しながら原料を生産する人達の少しでも役に立てればと思っています。また、その方がより地球環境にもやさしいもの作りが出来るんではないかと考えるからです。

 独立した当初、精一杯頑張って品揃えして、いろんな素材を扱うことが出来ることをアピールしましたが、各々素材は奥が深く自分では満足できません、残るのは敗北感と在庫だけで、結局以前の会社のミニ版に過ぎず魅力に欠けるんです。頑張ってやっているつもりで品数が増えるのは『沢山の品揃えをしないと不安』が一因だと知ることになり、『何でも有りますは、結局何にもない』ということを身をもって体験することになりました。

 

デザインの型数が増えるのは望むところですが当時の製造枚数は一型100枚とロットが多いんです。工場さんになんとか80枚にして欲しいなどとお願いしてしぶしぶ作ってもらう現状でした。

一方販売のほうはバブルが崩壊してマーケットが急激に冷え込んでいる時期で思うように伸びず展示会での受注状況は製造枚数の約半分というありさまです。その後の追加注文も殆ど入らず、立ち上がって納品した後の入金も芳しくありません。

こんな状況で苦しい資金繰りが続きます。応援してくれていた義父の保障で何とか出来た借り入れもすぐに底をつき在庫と借金はたまる一方です。これでは倒産してしまうという危機感から自社のブランドを諦めて工場さんに提携という形で工場ブランドの販売をさせてもらうことになり何とか危機を脱しました。

準備が整い営業を開始して約ひと月後、工場の社長さんから話があるというので急遽山形へ。やっと危機を脱し希望に燃えた販売計画を持ってワクワクしながら山形へ向かいました。会社ではなく豪壮な社長さんの自宅に案内され聞かされたのが、『明日この会社は倒産します、いま裁判所にいってきました』という思いもかけぬ言葉でした。

受け取った2億円の手形が不渡りが原因ということでした。頭が真っ白状態とはこのことです。この家も最後だから泊まっていってといわれても一睡も出来ず、翌朝、東京にとって返して金融機関を周り返済の猶予をお願いして、在庫の換金と事務所の撤退に走り回ります。もし自分が倒産したら応援し自宅を担保にしてくれているカミさんの実家は無くなってしまいます。地獄の淵を見ながら在庫を処分し、何とか他人様にはご迷惑をかけず自宅に事務所を移しました。

 

以後4年、懸命に走り回り、周りの協力も得て何とか借金も半減した頃、愛読書の著者で最も尊敬する経済人である大前研一氏が主催するアタッカーズ・ビジネススクールのことをウェブサイトで知り入塾させてもらうことになりました。新規事業の実践コースで、提出する事業計画書が『世界一のカシミヤニットメーカー実現の為の事業計画』です。

 失敗したニットメーカーにもう一度挑戦する。どうせやるなら自分が好きで自信を持てる、ニット屋になって以来魅せられたカシミヤに絞り込んでやっていこうと決めていました。好きなものでだめだったら悔いは残らないと決断したとたんに重く覆っていた雲が晴れるような心境でした。もちろんカシミヤに絞り込むことでハンデを負うことも確かですが、自分のような才能のない人間が人様に伍していくにはこれしかない選択だったと思います。

 また、カシミヤなら勝てる自信ありと密かに自負する処もありました。それは、40年もこの業界にいて、日本はもちろん、香港や台湾・韓国、最高峰と云われるイギリスやイタリアなどの多くの工場を訪れ、そんな中で世界的な有名ブランドを生産している工場さんとも実際に仕事する機会に恵まれました。そんな工場の設備、技術、ものづくりに対する経営者や従業員さんたちの心構えや情熱、等々。世界はおおよそどんなレベルかをある程度は見聞することが出来たのもひとつの要因です。

 

これからはパーソナルの時代、最高級の素材のカシミヤで『一人ひとりの希望の寸法でセーターを作る』という、企業レベルではどこでもやったことのないビジネスモデルでした。『作り置き・売り減らし・残品バーゲン』の流通業界で『作りながら売る・売りながら作る・最小在庫』のこのビジネスモデルはサプライチェーンマネージメント論華やかなりし頃で、ビジネススクールの誰かが『理想だけど評論家の絵の描いた餅みたいだ』といったのが印象に残っています。

一枚一枚作るなんて、そんな効率の悪い仕事を請けてくれる工場があるのか、それで工場が儲かるのか。利益が出なかったら最初は良くてもそのうちにだめになるのは目に見えています。両者ウインウインでなければ成功しない。

 

OEMでニットを作って頂いていた内田さんにお願いしてOEM生産の合間にカシミヤのサンプルを作ってもらいながら準備をしてやっと2002年に最初の受注会を開くことが出来ました。初めに構想して準備にかかってから丁度10年がたっていました。

 

 54色の中から『客様のお好きな色で、希望のサイズと寸法でおつくりします』というパーソナルサービスは絶対にいけるという自信はあっても実際に注文を頂くまでは確信は持てません。希望を持ってはじめたこのビジネススタイルに確信をもったのは福井県武生にあるギャルソンさんでの成功でした。『お店にはリスクはないし、お客様も喜んで注文してくれたし、このやり方は絶対いいと思うよ、頑張ってね』という平山さんの言葉はこのビジネスに確信を持たせるものでした。心から感謝しながら帰りの列車を待つ間ワールドカップのイングランド対ブラジル戦を駅構内のTVで観戦したのが瞼に焼き付いています。

 受注会が上手くいったら今度は生産が間に合いません。次の目標は自社工場を持つことでした。相変わらず他様で一枚づつの生産を受けてくれるところはありませんので生産の限界が売上の限界です。注文が殺到し納品がどんどん遅くなりお叱りを受けることが多くなります。そんな折、『念ずれば通じる』で前の工場・山梨工場の工場長である佐野との出会いがありました。今ではまとまった生産まで出来るようになりましたが、いちプログラマーだった彼が、ゼロから一つの工場を立ち上げることは大変なことだったと思います。しかも高い完成度の物づくりを目指していて頼もしい限りです。

 

 今後は今まで秋冬物のカシミヤ素材だけだったのを春夏物を開拓して、年間の展開が出来るようにして経営を安定させることです。今までは生産能力の問題もあり春も夏もカシミヤを作り続け、秋が立ち上がってやっと換金が出来るというりんご農家のような季節限定のビジネスでしたから。

 今後もUTOはこのカシミヤをメインに、カシミヤで培った丁寧で高度なもの作りで、『世界から、カシミヤならUTO』と言われるようなメーカーを目指します。

 

 最後に、いつも明るく好きなことをやらせてくれる家内、少ない人数で前向きに頑張ってくれる社員のみんな、ニットの師匠の内田さん、当時の東洋紡糸工業原糸製造部長の山下さん、小金毛織の石井社長、財団法人・毛製品検査協会の木村さん、エステー化学のみなさん、繊研新聞の阿部常務、みなさんにこころから感謝します。